Rien du tout, ou la conséquence

とどのつまりは何も無し

人間そう簡単に変わらないということ

ふと気が付いたら年が明けていた。せっかく、またきちんとブログを書きはじめたいと思った折なのに、結局五日坊主じゃないのと思うけれど、きっとそうなるだろうなと思って始めたものだから別にかまわない。

本来、ここに書きたいと思うことができるのは、たぶんわたしにとってあまりよいことではないのだけれど(映画の話題をのぞく)、2014年がはじまって2か月経って、すでにかなり書きたいことが出来てしまった。それはゆっくり書こう。

それにしても、年末からこの方思わぬ出来事が多くて気疲れしてしまいそうだ。お祓いでもしてもらったほうがいいのかな、うっすらそう思う、いやほんとうにほんとうに。

重力を愛することについて(ゼロ・グラビティ)

先週月曜日出社したところ、課長の第一声が「おい、おれ『ゼロ・グラビティ』観たんだけどすごかったあれマジ見るべき」だったので観ようと思っていた。
あまり映画の趣味が合うひとではないのだけれど、べつだん映画好きと思えない課*1の中で、月曜日(公開後3日経過ぐらい)の段階で課の中の3人ぐらいがすでに観ているという異常な状況、かつ、全員がすごく感想を語りたそうでたまらなさそうだったので。


たぶんこれまで観た映画の中で何番目かにこわい映画だった。こわすぎて開始3分で泣いてしまった。
一時間ぐらい経って、気が付いたら首に涙がつたうぐらいに泣いてしまっていた。
宇宙はこわい。こわいから好きだし、こわいから考えたくないと思うこともあるけれどもっと考えたいし、知りたいし、もっと触りたいと思う。
わたしの知りたい感覚、知りたくない感覚、分かりたい感覚はやっぱり「こわい」から生まれる。


昔、バリイ・N・マルツバーグの「アポロの彼方」という小説を読んだのだけれど、気に入っていてメモに写してあった一節を思い出した。狂ってしまった宇宙飛行士の話の断片を集めたもの。

うふ、とエヴァンズは口に出し、意識が恋人のように遠のき、ううむ、と気を失うと、八倍の重力が花嫁のように爪を立てて襲いかかる。


とりあえずこれ邦題を「ゼロ・グラビティ」にしたらだいなしだろうとは言っておく。
まあセールス的な意味でそうしたい気持ちは分からないでもないのだけれど。くだらない副題を付けられるよりはましかなとは思うのだけれど。

あ、あと、隣に座ってたおじさんが途中のしずかなシーンで紙袋をガサゴソし始めて、初めて映画中の騒音で軽い殺意をおぼえたかもしれない。音が余計、といえば、劇中に使われていた音楽ももっと控えめでいいなとは思ったけど(音量的な意味ではない)、でもおじさんすげーあれだいなしだった! だいなしだった!!!



そういえば高校生のころ、わたしはこの地球の重力を愛する、という一文で終わる話を書いた。



いろいろ突っ込みどころはあったのだけれど、映画は必ずしも科学的なリアリズムにのっとっていなければいけないわけではないと思うタイプなのでこれでもいいかなと思う。
以降ねたばれ、観ていて気になった点を少し。




気になったのは
・一方ロシアでは、とは言え、衛星爆破した場合の影響の計算ぐらいするw
・最初、ストーンは遠心力で一気に救出不可能な所まで行くだろうし、それを抑止するような行動を取ったようにも見えなかったのできっとコワルスキーはどうやっても追いつけない
・上記にくわえて、ISSと望遠鏡間も相当距離あるはずだし、「ISS(元座標だっけ?)まで900メートル」のようなことを言っていた気がするけど、単純距離というより三次元座標的な意味での距離が問題なのでは。でもストーンを安心させようとして言ったとも取れるのでいいかな。着けちゃったけど。
・スペースデブリは「来る、来る!」って感じで視認できる速さじゃないはず
・なんでパラシュート開いたん? そもそも宇宙空間で開くん?
・中国の宇宙ステーションは有人ではないのか?(あれは逃げた後ってこと?)
あれ、結構あったな……。でも楽しむのが映画ではだいじ。


ゼロ・グラビティ

ゼロ・グラビティとは編集

*1:映画好きは多くはないがサブカルやらSFやら好きは異常に多い

ふしあわせな世界を見送ることについて

同期たちと共に、千葉某市のセレモニーホールへ、彼女のお通夜に行った。

わたしも同期もまだ友達が死ぬということに慣れていない。「爺ちゃん死んだ時はこうだったけど~」「俺身近な人のお葬式って初めて…」なんて話しながら歩いた。わたし自身も自殺で友達をなくしたことはあるけれど、こういう形は初めてだ。
誰からも望まれていない形で死を迎えてしまったことへの仕返しのように、大量の罠が仕掛けられた場所だった。

まずエントランスから容赦ない。会場のフロアに着いたエレベーターのドアが開くと、全員がウッと声を詰まらせた。彼女が着ていたコートがマネキンにかけられていた。
「あ、あ…あのコート」「いや、分かる、そうでしょ」「ヘッドホンもそうじゃね…」とすでに苦悶の声がそこかしこから漏れる。
次にご友人からの挨拶で、ご丁寧に、中学時代・高校時代(2名)・大学時代、と4回にわたって「泣け」という全力アピール。途中から心を無にして「近しいひとが死んでしまったときどういう言葉が一番グッと来るのか」探しへ精神を追いやるしかない追撃。
同時に音楽。セレモニーによくあるぼんやりしたシンセは、最初はディズニー系のしっとりした曲を流していて納得だったのだけれど、「虹の彼方に」の次に「ルパン三世のテーマ」のアレンジ*1が流れて頭が大混乱する。その後はもうやりたい放題、エゴラッピンに吉井和哉にイエモン、ってこれ全部あの子が好きだった曲だ、カラオケに一緒に行くと歌ってた曲だ、と気付いてもう復帰不可能。
わたしの献花の順番が回ってくる頃流れていたのは、イエモンの「JAM」で、泣くのを通り越して多少の絶望感と一緒に、白い菊をそっと置いた。



彼女のおかあさんは、とても小さくて、白髪がめだっていた。
おとうさんは、全然似ていなかったけれど、ずっとうつむいていた。
来年結婚する予定だったと言っていた彼氏は背が高くて正直に言って今風のかっこいいひとで、ああこのひと最強のカードを手に入れてしまったな、と思ってしまったことを、心から詫びたい。

棺の中の彼女は、とてもきれいにお化粧をしてもらっていた。
髪もきれいにしてもらっていたけれど、きれいすぎて、ウィッグだとすぐに分かった。



丸いテーブルを囲んで同期一同と(遠慮無く)(上等な)寿司をつまんだのだけれど、途中、ロビーで「在りし日の映像を流す」というとんでもない集団自傷イベントが行われていて、いやそんなの絶対行かないよ、と苦笑いをしていたら、途中から歌声が聞こえてきた。テーブルが凍りつく。
「これ、は、」思わず絶句する。
「あーだめ、おれ聞こえてない」と一番仲の良い同期。「これ聞いちゃいけないやつだよ」
聞いちゃいけない、と言いながらみんな必死に耳をすませて、テーブルの人数に足りないサーモンとイクラをどうやって分配するかの相談をした。


自殺でひとが死んだ時は、なじりたい気持ちとかなしい気持ちがないまぜになる。ではそうでないときは?


帰る直前に勇気を出してエントランスにある思い出の品コーナーに寄った。
「うわ、あの子ゼンハイザーのヘッドホン使ってたの」とか言いながら、ふと見てしまった。
わたしが昔あげたカピバラさんのちいさなフィギュアが、そういった雑多なものにまじって置かれていた。

*1:エゴラッピンがカバーしていたらしいとその後検索して知る

ふしあわせな世界を望むことについて

ようやく少し落ち着いたので忘れないように言語化しておきたい。
月曜日、仕事がなかなか片付かなくて残業して疲れて各停で座って、ものかきのプロットを考えながらBentのTo Be Lovedを聞いていたらメールを受信した。前の会社の同期の女の子が昼頃に死んだというメールだった。脳腫瘍。
そのメールを貰って、彼女に関して何を考えただとかそういうことは省くけれど、思ったのは、わたしは幸せなんだなあということ。

常日頃からわたしは、フィクションにおいてかなしい物語がとても好きで、その一種のエクスキューズとして「かなしい物語を現実において願うのは罪だから」と言っているのだけれど、それはかなしい物語に飢えている人間のものいいだ。ある意味では二次元児童ポルノだとかそういう問題とおなじ、なのかもしれない。

フィクションの遊びとしてわたしはPBCで遊ぶことがあるけれど、自分のキャラクターを死なせることに対してまったくと言っていいほど抵抗がない。ダイスで生死のかかったバトルをするときでも抵抗がないし、むしろ負ける方が好きだ。試合には負けてもいい。負けると分かっている試合をどう面白くするか、勝者にどういう類の傷を残してやれるか、そんなことを考えてしまう。どうせ終わりは来る。死んでしまっても少し終わりは早く来るだけだし、死ぬ方はそれ以上影響を受けることなく、誰かに何らかの影響を与え続けることができ、「呪い」を残せる。残された方がしんどいに決まってる。絶対死にたいとか生きたいとかもなく、多分お話として死んだ方がおいしいだろうな(そう、もう要はおいしいかどうかでしかない)なと思う場面の方が多いからそうする、ことも多い。
同じぐらい、自分のPCに近しい立場にいるPCが死ぬのが嫌いではない。わたしのキャラクターは必ず何かしらの影響を受けるから。その、死んだPCについてほかの誰かと話すのも好きだ。必ず何か思い出すから。
直近で参加したPBCでも友達が死んだ。友達が死んだと知って、わざわざわたし(のPC)はほかの友達を呼び出して話をするロールをした。わたしのPCはきっとこうして彼の死を受け止めるだろうという方法にしたがって。とてもとても、わたしはひとの死に対して酔っていた。

わたしの友達はきっとそのロールをした頃にはもう半分死んでいたはずだ。ちょうど彼女の手術が終わって、意識が戻らないままになった頃だったから。わたしがもしも彼女のその状態を聞いていたら、そうしたロールが出来ただろうか。わたしはもてあそんでいる。もてあそんでいた。



Bent - To Be Loved - YouTube

やすかろうわるかろう

ここしばらくどうにも体が痛いので整体へ行きたいと思っていたのだけれど、会社の近くの整体が営業終了してしまったのでどうしたものかと思っていると、自宅の近くに新しくオープンした整体があるという。しかもなんだか妙に安い。行ってみると妙に安い値段以外は別段変わったところはなくて、商売ってむずかしいよなあ。

ここをキャンプ地とする

twitterに書くには少しかさんでしまう、けれど連投postをしてまで書くほどではないようにも思えるどうでもいいことだとか、もうすこし自分があとで気になって読みかえすときに検索性が高くあってほしいことだとかをメモする場所がほしいなと思った。

本当はUIとしてははてなダイアリの方が好きなのだけれど、七年前に今日のわたしと同じことを思っておよそひと月で挫折したらしい過去のわたしが付けていた日記がなんだかかわいらしかったので、ダイアリはそのまま残し同じタイトルではじめることにする。ひと月で終わってしまうならそれもまたよし。おそらく、食べたものの記録をかならず付けようと思っていたのが悪かったのだよ過去のわたしよ、そういう類のものを付け続けるのが苦手なことはよく知っているじゃないか。

タイトルは、ソランジュ・マリオ「とどのつまりは何も無し」より*1。あらためて聴くとサントラもよい。
#ZFR079 Solange Marriot's 'Rien du tout, ou la conséquence' by Lugol's Iodine - Zorch Factory Records

*1:→レム「完全な真空」参照