Rien du tout, ou la conséquence

とどのつまりは何も無し

ふしあわせな世界を望むことについて

ようやく少し落ち着いたので忘れないように言語化しておきたい。
月曜日、仕事がなかなか片付かなくて残業して疲れて各停で座って、ものかきのプロットを考えながらBentのTo Be Lovedを聞いていたらメールを受信した。前の会社の同期の女の子が昼頃に死んだというメールだった。脳腫瘍。
そのメールを貰って、彼女に関して何を考えただとかそういうことは省くけれど、思ったのは、わたしは幸せなんだなあということ。

常日頃からわたしは、フィクションにおいてかなしい物語がとても好きで、その一種のエクスキューズとして「かなしい物語を現実において願うのは罪だから」と言っているのだけれど、それはかなしい物語に飢えている人間のものいいだ。ある意味では二次元児童ポルノだとかそういう問題とおなじ、なのかもしれない。

フィクションの遊びとしてわたしはPBCで遊ぶことがあるけれど、自分のキャラクターを死なせることに対してまったくと言っていいほど抵抗がない。ダイスで生死のかかったバトルをするときでも抵抗がないし、むしろ負ける方が好きだ。試合には負けてもいい。負けると分かっている試合をどう面白くするか、勝者にどういう類の傷を残してやれるか、そんなことを考えてしまう。どうせ終わりは来る。死んでしまっても少し終わりは早く来るだけだし、死ぬ方はそれ以上影響を受けることなく、誰かに何らかの影響を与え続けることができ、「呪い」を残せる。残された方がしんどいに決まってる。絶対死にたいとか生きたいとかもなく、多分お話として死んだ方がおいしいだろうな(そう、もう要はおいしいかどうかでしかない)なと思う場面の方が多いからそうする、ことも多い。
同じぐらい、自分のPCに近しい立場にいるPCが死ぬのが嫌いではない。わたしのキャラクターは必ず何かしらの影響を受けるから。その、死んだPCについてほかの誰かと話すのも好きだ。必ず何か思い出すから。
直近で参加したPBCでも友達が死んだ。友達が死んだと知って、わざわざわたし(のPC)はほかの友達を呼び出して話をするロールをした。わたしのPCはきっとこうして彼の死を受け止めるだろうという方法にしたがって。とてもとても、わたしはひとの死に対して酔っていた。

わたしの友達はきっとそのロールをした頃にはもう半分死んでいたはずだ。ちょうど彼女の手術が終わって、意識が戻らないままになった頃だったから。わたしがもしも彼女のその状態を聞いていたら、そうしたロールが出来ただろうか。わたしはもてあそんでいる。もてあそんでいた。



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